宗教・道徳の欺瞞

幸せなことと正しいこと

小学校の道徳教育では、「他人を馬鹿にしても楽しくない」と教えられる。 そんな訳がない。 残念ながら、余程の聖人のような人を除けば、他人を馬鹿にすることが快楽であることは認めざるを得ない事実だ。 少しひねくれた子には直ぐに見透かされて、結局こんなことに騙されるのは物分かりの良すぎる子だけになってしまい、「馬鹿を大人しくさせる」という宗教や道徳の本来の目的が全く果たせない。 だから、嘘を押し付けるのではなく、他人を馬鹿にすることが快楽であることをまず認めた上で、それでもそれはいけないことである、と教えるべきだ。

金持ちが起こす数々の悪に対して、「そこまでして幸せか」と批判する人がいる。 これも、やはりそれが幸せであること自体は認めざるを得ない。 投機で金を殖やしながら労働者を嗤い、ゲーテッド・コミュニティに住んで外の庶民を見下し、飲食店で沢山注文して沢山残し、強者増税すると海外へ逃げると社会を脅し、嫉妬はいけないと尤もらしいことを言って「強者増税に反対する無邪気な若者」を養成する。 まあ流石にここまではやりたくないという人もいるだろうが、私なら正直言って、これらのことができる立場にあればやるだろう。 だからこそ、庶民は金持ちに対してもっと怒るべきだ。 公務員とか生活保護とか変な所にエネルギーを使うのではなく、有権者には庶民の方が多いのだからその数の力を利用して、金持ちの悪を許さない法整備をする政治家を選んで欲しい。

幸せなことと正しいことは一致していることが望ましいが、現実はそうではなく、寧ろ誰かが幸せになれば誰かが不幸になるというケースの方が多い。 無理に両者を一致させようなどと考えない方が良い。 最初から最後まで綺麗事で覆い尽くそうとするのは、宗教や道徳の悪い癖である。 その背景には、子供は「純粋な」「少年らしい」子供でいて欲しいという大人の阿呆みたいな望みがあるのかも知れない。 まあ、先に大人社会を何とかしないことには、子供だって馬鹿ではないのだから、何を言っても無駄だろう。

低すぎる「幸せのボーダーライン」

最近は「自分それぞれの幸せを見つける」というのが流行りだそうだ。 金で幸せになることが困難になってきたことの裏返しである。 誰だって、ファーストクラスやグリーン車に乗ったり、料亭や高級クラブに行ってみたいだろう。 本当に金持ち以外の幸せを幸せだと思うのならそれで良いが、どう見ても負け惜しみにしか見えない人が多い。 昔、森永卓郎の「年収300万円時代を生き抜く経済学」という本がベストセラーになったが、これも「今は金持ちになるのは困難だから、諦めて少ない収入で幸せになれ」という内容のものだった。 一方で、森永はその印税をミニカーのコレクションに費やしていた訳だから全く説得力がない。

宗教は「幸せのボーダーライン」を極限まで下げている。 宗教の目的の1つとして「人々を幸せにすること」がある。 だが幸せになる為にはまず金持ちにならなければならない。 だから宗教は、嘘を言って幸せであると思い込ませるしかない(もし世界のどこかに金をばらまいてくれる宗教があれば、それは本物の宗教かも知れない)。 それで、「毎日3食食べられる幸せ」とか、誰でも幸せになるように、幸せのボーダーラインを極限まで下げるしかない。 自分が幸せだと思わないといてもたってもいられない人なら、そうでも考えないとしょうがないのかも知れないが、これは対症療法だ。 大人なら、やはり現実を認識すべきである。

「両親に感謝」などと言うのも、「ただ生きているだけで幸せ」という低すぎる幸せのボーダーラインに由来する。 親への不満に対する決まり文句「社会に出ると親のありがたみが分かる」がある。 よく考えてみれば、そんな酷い親がありがたいと思えてくる程生活が大変な社会で子供を作るなんて、この上ない阿呆ではないか。 ネットのQ&Aサービスなんかを見ていても、ろくに躾をしない親に対して厳しい意見が多いネット社会にも拘わらず、親への不満に対しては「両親に感謝」と無慈悲に突っぱねるだけ。 日本人は全然無宗教なんかではない。

何より深刻なのは、くどいようだがやはり教育の問題だ。 大阪府の私学助成に反対する人達のように、教育を(金がある人が受ければ良いだけのものという意味で)単なるサービス業の一種と勘違いしている人がいる。 「義務教育は中学校まで、それ以降は、両親に金がなければ自分で稼いだ金で行け」と抜かす愚民もいる始末。 このような主張は親にとって都合が良いから当然拡散する。 昨今の格差社会を見ていると、このような主張がその内一般常識になってしまいそうで心配だ。 衣食住を与えて、様々な文化にも触れさせて、欲しがる物は適度に買い与えて、行きたい大学に行かせて、これで当たり前。 両親に感謝するとすれば、それを上回ることをしてもらってからだ。

一応言っておくが、「それでも私は両親に感謝する」という人はそれで良い。 恨むよりは感謝する方が良いに決まっている。 両親に感謝が当たり前だと思ってしまい、本来果たすべき責任を果たさない親や、感謝に値しない両親を持った人にもひたすら「両親に感謝」を唱える愚民を批判しているのだ。

理不尽な道徳の数々

「年長者を尊敬」は、昔に比べればだいぶ廃れてきた。 大体「両親に感謝」とか「年長者を尊敬」とか、「感謝」や「尊敬」が最初にあるのはおかしい。 人間の良心になんて期待できないのだから、最初に感謝や尊敬を持ってくると、両親や年長者はそれが当たり前だと思って調子に乗り始めるに決まっている。 まず感謝や尊敬に値する行動をして、それで初めて感謝や尊敬をされるのだろうが。 もっと言うと、順番を変えれば良いというものでもない。 わざわざ両親や年長者に限定しなくても良いのだから、突き詰めると「感謝すべき人に感謝」「尊敬すべき人に尊敬」という、単なるトートロジーにしかならなくなる。

「家族愛」も崩壊寸前だと言われているが、未だしぶとく残っている。 自分で選んだ訳でもない人と共同生活をする、そんなことできる方がおかしいという常識に戻ることが必要だ。 扶養義務は、両親の子に対するもの以外は削除すべきである。 生活保護を受けようと役所に行くと、まず「家族がいるなら家族に養ってもらえ」と言われるという。 自分の意思に反して所属が決められ、生活費は集られるし、犯罪者が出ると連帯責任にされる。 全く家族程理不尽な共同体はない。 そもそも「両親に感謝」「家族愛」などというのは、家族という共同体にあまりにも矛盾が多すぎて、そうでも考えないととてもやっていけないから言われるようになったのではないのか。

これからはもっと合理的に物事を考えなければならない。 そして「下を見ず上を見る」を肝に銘じることである。 宗教は「人々を幸せにすること」なんて不可能なことを言わずに、性欲はいけないとか、「馬鹿を大人しくさせる」役目だけに徹するべきである。 それにしても、孔子は2,500年経ってもなくならないとんでもない置き土産を遺していったものだ。 尊属殺人罪が削除された理由はあくまで「親孝行は当たり前だが、それでも刑が重すぎるから」であって、決して「親孝行が当たり前は間違い」で削除されたのではなかったということを忘れてはならない。 今でも「卑属」などという酷い言葉が法律用語に残っている。 いい加減に言い換えをせよ。

2010年11月13日 救世主かける様(http://gumin.xxxxxxxx.jp/)

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