×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

他人事だと思って考えるな

連帯責任・監督責任の問題

嘗ては教育現場で連帯責任は当たり前だったが、今は連帯責任を言う人はかなり少なくなった。 それでも、甲子園出場校で不祥事が起こると、その高校は出場辞退せよと言う愚民も依然しぶとく残っている。 他人の行動を全部監視して、問題があれば止めるということなんて不可能に決まっているだろうが。 家族のように本人が望まず属した集団では、そもそも止める義務すらない。 家族に責任があるとすれば、犯罪者が出るのは社会全体の責任であり、その一部としての責任だけだ。 連帯責任にすると、互いに注意し合うようになって良いとかいう愚民がいるが、他人に注意を払うことを押し付けられるなんて良い迷惑だ。 更に、連帯責任の範囲内にとんでもない馬鹿が混ざっているとどうにもならなくなる。 連帯責任は、理想も現実も何一つ良いことがない。

こんな意見を見たことがある。 「なぜ甲子園だけ連帯責任なのか。 それなら大学受験生が不祥事を起こすとその高校の受験生は全員一浪させることにしよう。 しかし、甲子園に出られずプロ野球への道を閉ざされるのは、大学受験で一浪するよりも遥かにダメージが大きいから、やはり連帯責任にすべきでない」 結果としては連帯責任はいけないということなのだが、結果さえ正しければ良いというものではない。 この人は連帯責任を程度の問題だと思っている。 そうではない。 連帯責任は、少しでもいけないことなのだ。

続いて監督責任の話をしよう。 監督責任と連帯責任の違いは、連帯責任は同等の立場の者が責任を負うのに対して、監督責任は上の立場の者が責任を負うということだ。 だから監督責任の方がまだ正しい。 それでも、これは本当に止められたのか、怪しいケースも沢山ある。 企業はどこまで社員に教育をすれば監督責任を問われなくて済むのか分からない。 そもそもやたらと監督責任を問う愚民は程度を知らない。

無闇に青少年の自由を制限するある種の校則や条例も、自由にしておいて問題が起きたときに、学校・行政・保護者等が責任を問われるのを避けたいという背景がある。 深夜に外出して犯罪に巻き込まれると、周囲の大人が責任を問われるから、深夜外出自体を「悪いこと」にして、「悪いことをしたのだからしょうがない」としてしまう。 悪いのはその犯罪者なのだから、そんな無理な監督責任を問う愚民には、きっぱりと「我々に責任はない」と言ってやれば良いのだが、そんなモンスターペアレントや2ちゃんねる利用者のような大人に立ち向かうのが如何に大変かは言うまでもなく、結局無抵抗な青少年にしわ寄せが行くことになる。

犯罪者が属する集団の責任

犯罪報道では、マスコミはその犯罪者の属する集団全体を非難しがちだし、それを直させるべき立場のネットも、マスコミ以上に集団全体で物事を考えがちだ。 2009年に起きた京都教育大学の学生の集団強姦事件で、無関係な学生が自分まで責められるのはおかしいと主張して炎上が起きた。 私は、少なくともその主張自体に関しては学生に同意する。 2ちゃんねる利用者が方々に圧力を掛けて、他の学生が本当は謝罪しなくても良いのに謝罪せざるを得なくなる。 そんな口先だけの謝罪をさせて何が良いのか。

本当は、凶悪犯罪者の家族が「被害者は気の毒だが、私は止めることもできなかったし、そもそも止める義務もなかった」と言っても大丈夫な社会でなくてはならない。 現実は、こんなことを言った凶悪犯罪者の家族が社会的に死ぬのは間違いないだろう。 もし自分の属する組織でいきなり不祥事が起きて、それで自分も一緒にされたらどう感じるか、考えない人が多すぎる。 他人事だと思って連帯責任などという滅茶苦茶な理屈を振り回すのではなく、もし同じことが自分の組織で起きたら、と考えることが大切である。

「それでは、2ちゃんねるも悪い人は一部だけなのだから、2ちゃんねる全体を否定するな」という声が聞こえてきそうなので一応言っておく。 残念ながら、それだけは間違っている。 2ちゃんねるの場合は事情が特殊だ。 2ちゃんねるは組織自体が悪だからだ。 運営の体制は悪にとって都合が良いようにできているし、西村は賠償命令に応じていない。 つまり、2ちゃんねるは悪が偶然の産物ではなく、寧ろ善が偶然の産物なのである。 それにしても、彼等は普段は「一部を見て全体を言うな」なんて絶対に言わないタイプの人間なくせに、全くご都合主義も良い所である。

NIMBYの問題

NIMBY(ニンビー)という言葉がある。 "Not in my backyard"の略で、自宅の裏には来て欲しくない施設のことを指す。 すなわち、原発とか、米軍基地とか、ゴミ処理場とかの類の施設のことである。 一般に、これらの迷惑施設に対して反対運動を起こす人は身勝手だと思われている。 果たして、本当にそうなのだろうか。

もし米軍基地が必要なら、東京湾を埋め立てて、そこに持って来れば良いのだ。 首都圏在住でない人は、自分の街に持って来ると考えよ。 軍事上の理由で沖縄近辺でないといけないのなら、移設できる分だけでも移設すれば良い。 それもできないなら、周辺住民に転居費用を出せば良い。 米軍基地が必要という人は、なぜか周辺住民への補償については全く言わない。 所詮彼等は、国益の為なら一部の犠牲はしょうがないとか思っている人なのだろうが、一部の犠牲の上の幸せなんて幸せなんかではない。

原発も同様だ。 最も電力を消費するのは東京なのだから、皇居にでも建設すれば良い。 「その代わり自治体に交付金が手に入る、財政が苦しいなら受け入れれば良い」と言う人が結構いるが、何か重大なことを忘れてしまっていることに気付いて貰いたい。 誰だって、税収の少ない自治体に生まれたくて生まれた訳ではない。 原発を受け入れなければならない程財政が苦しい自治体を支援するのは、ギブアンドテイクではなくして当たり前のことだ。 奨学金を貰える代わりに新聞配達をしなければならないとか、軍隊は志願制だが結局貧しい階層の人が入隊せざるを得なくなるとかと同じ問題だ。 恵まれない状態を当たり前と思ってはいけない。 そこからまともな生活に持って行くのは、代償なしに国がしなければならないことなのである。

自宅の裏に来て欲しくない施設に対する反対運動を、必要だからの一言で切り捨てるな。 必要だと思うなら、自宅の裏に来ても良いと言えなければならない。 或いは、自宅の裏に施設が来る人にはたっぷり補償を出せと言え。 それができないのなら、安易に必要だと言うべきではない。 他人の気持ちが分からない人が増えていると言われている。 もし自宅の裏に迷惑施設が計画されていたら、と思って考えなければならない。

2010年6月6日 救世主かける様(http://gumin.xxxxxxxx.jp/)

Prev 性表現の問題 トップページへ戻る Next ザ・コーヴの問題